今回もデヴィット・フィンチャー監督の映画になりました。フィンチャー監督の最高傑作との声も高い『セブン』(1996年)です。
1.あらすじ
退職目前のベテラン刑事のサマセットと新米刑事のミルズは、大都会で起きた猟奇的な殺人事件を担当することになった。やがて、これは七つの大罪になぞらえた連続殺人事件であるということに二人は気づく。
監督のデヴィット・フィンチャーの紹介は、前回の『ソーシャル・ネットワーク』でしたので、割愛させていただきます。サマセット役はモーガン・フリーマン、ミルズ役はブラット・ピット。モーガン・フリーマンは、ハリウッドの大御所俳優。彼がナレーションをすると、どんな映画も傑作になります。ブラット・ピットも言わずもがなの人気俳優。近年は、プロデューサーとしても活躍しています。
2.七つの大罪とは
本作では、七つの大罪が一つのキーとなっているのですが、これは馴染みがない人も多いと思います。でも、今は『七つの大罪』という漫画もあるから、知ってる人は意外と多いのかな?
七つの大罪とは、キリスト教においてあらゆる罪の根源とされる七つの重い罪のことです。その七つとは、傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、肉欲。簡単に言うと、いばっちゃダメ、人をうらやましく思っちゃダメ、怒っちゃダメ、怠けちゃダメ、欲を張っちゃダメ、食べすぎるのはダメ、セックスしちゃダメということ。本当はもっと深い意味があるのでしょうが、とりあえずはこのくらいの理解で十分です。
本作では、この七つの大罪に倣って殺人が行われています。いわゆる見立て殺人です。七つの大罪を理解するために、作中ではダンテの『神曲』などの古典文学が登場します。これは、『ダ・ヴィンチ・コード』などのダン・ブラウン作品にも通じる知的な道具ですね。
3.鬱になるビジュアル
『セブン』を語るうえで外せないのが、その独特なビジュアル。とにかく、気持ち悪くなります。意図的にそうしているのですが、出てくる場面は大体退廃的で汚い。特に、第1の殺人(暴食)や第3の殺人(怠惰)の現場は、見ていられないほどです。
加えて、街は常にどしゃ降り。徹底的に、暗い雰囲気になっています。殺人の残虐性も相まって、気分の悪くなる映画になっています。
それとは対照的に、刑事二人の部屋は比較的小ぎれい雰囲気。どうやら、彼らはこの退廃した街の中でも、自分たちの暮らしを守っていたようです。
以下、『セブン』のネタバレを含みます。未見の方は、ご注意ください。なお、以下の文では小説『ゼロ時間へ』にも触れていますが、こちらのネタバレはしていません。
4.ゼロ時間へ(ネタバレ)
本作の一番の特徴は、その衝撃的な結末にあるでしょう。この結末を見て、私はアガサ・クリスティーの小説『ゼロ時間へ』を思い出しました。原作でも何でもないし、事件や犯人もまったく違うのですが、プロットとして共通点があります。
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アガサ・クリスティーの『ゼロ時間へ』は、知る人ぞ知る名作ミステリーです。この作品で、最も特徴的なのがそのプロットになります。これは最初から書いてあるのでネタバレではないのですが、この小説では犯行の瞬間、すなわち「ゼロ時間」が最後に書かれています。
『セブン』もこれと同じようなプロットだと思うのです。観客は、最初は連続猟奇殺人に刑事が立ち向かう話だと思っているのですが、実際にはミルズ刑事の崩壊を描いた物語だったのです。その崩壊の瞬間が、最後の彼の手による殺人であり、物語はこの瞬間に向けて収束していくことになります。
アガサ・クリスティーは、この方式を成立させるために、犯人や被害者及び関係者の言動を丁寧に書いています。それは、実は『セブン』も一緒。『セブン』で注目しなければいけないのは、犯人が誰かということや事件の猟奇性ではなく、ミルズの言動なのです。彼はこの町に進んで配属した新米刑事であること、精神がやられている妻がいること、犯人が彼を見逃してくれたこと。そして、最終的なミルズの行動。こここそがこの物語の主軸なのです。
デヴィット・フィンチャーが『ゼロ時間へ』を知っていたかどうかは分からないので、これは完全に個人的な解釈です。ちなみに、アガサ・クリスティーといえば、『そして誰もいなくなった』が非常に有名です。この作品では、10人の人間がマザー・グースの歌に沿って殺されていく連続殺人が行われます。見立て殺人の金字塔ともいえる作品です。このアイデア自体にも、アガサ・クリスティーと『セブン』の共通点がありました。
5.まとめ
本作は胸くそ映画の一本に堂々と入るのですが、一見の価値は大いにあります。というか、むしろ二見の価値というべきでしょうか。映画を見る前と見た後では、これは全く別のものになります。ぜひ、一度見たことがあるという方も、視点を変えて見てみてはいかがでしょうか。
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